サッカーのマッチレポートなどを中心に。その他サッカーのうんちく系ブログ。

ブラッターが辞任したので、スポーツとお金について書いておく

ブログの題名が「サッカーレポート」なのに、サッカーの政治の話題を二回連続でする男、スパイダーマン!ではなく、pal9999どす、こんにちは。


前回、FIFAの組織の話をしたけど、ブラッターが、



www3.nhk.or.jp



突如、辞任→再選挙、という香ばしい流れになったので、今回は、「FIFAが金満になって、腐敗がはこびるようになっていった」過程について書いとこうと思う。これ、本一冊書けるくらいのネタなんだが。


サッカーの話を読みにきた人には申し訳ないが、本日もFIFAとW杯と政治と腐敗ネタである。


まず、サッカーのW杯なんだけど、


ドイツ大会の収益    17億ドル
南アフリカ大会の収益  36億ドル
ブラジル大会の収益   45億ドル


となっており、オリンピックと並び、世界最大規模のスポーツイベント、収益マシーンと化している。ちなみに、内訳として、約半分は放映権料。残りがスポンサー収入とチケット料である。現在、W杯の収入の大半は、放映権料とスポンサー収入から生まれている。



Wカップがここまで巨大な集金マシーンと化した原因は放映権料、スポンサー収入である。実は、この二つに深く関係している会社と人物がいる。今回はそこに焦点をあててエントリを書いた次第である。



なお、クッソ長いので、最後にまとめを書いた。全部読むのが面倒な人は、最後だけ目を通すだけでも良い。


初期のFIFAとWカップ、FIFAに金がなかった頃の話


この話を始める際、どこから始めるか非常に迷うんだが、とっかかりとして、まだFIFAとW杯に集金力がなかった時代の話から始めようと思う。


まず最初に、第一回のW杯、ウルグアイ大会の時なんだけど、ウルグアイの他にも立候補した国があった。イタリア、オランダ、スペイン、スウェーデンも立候補したんだけど、主催国が参加チームの旅費と滞在費を全て負担という条件を提示されると立候補を取り消した。とにかく金がなかったのである。


今となっては信じられない話かもしれないけど、ウルグアイ開催が決まってからからも、欧州は参加を渋っていた。船で2週間かかる南米への旅への恐怖、大会期間中の選手の給料の支払い問題などから、欧州からウルグアイ大会に参加したのは、たったの4チームだけだった。フランス、ユーゴ、ルーマニア、ベルギーだ。これ、全部、当時の欧州では二流と見られていた国だらけである。


ちなみに、サッカーの母国のイングランドなんだけど、この時期は珍グランドっぷりを遺憾なく発揮している。つまり、英国四協会は、第一次大戦での敵国と中立国が試合を行った事を契機にFIFAを脱退してたりする。当時はWW1の影響で、排他的な雰囲気があったのである。英国四協会は、この頃からFIFAで特権的な地位を求めて脱退と再加入をくり返してたりして、業が深い連中だったりする。基本的に、仏の連中が中心になって結成したFIFAと、英国四協会は初期からあんまり上手く行っていなかった。この辺のしこりは、現在もなお解消されたとは言い難く、英語圏と仏語圏の対立は、現在も続いている。



英国四協会の国際的孤立は、ブラジル大会で、そのツケを支払わされる事になる。「FIFAワールドカップ史上最大の番狂わせ」、「イングランドサッカー史上最大の恥」と呼ばれる、1950年ブラジルW杯におけるアメリカ戦での敗北である。続くスペイン戦もイングランドは落とし、W杯を去ることになる。寄せ集めのアマチュア選手の集団だったアメリカ・チームの勝利は2005年に映画にまでなった。W杯におけるイングランドの歴史は、ものすごく香ばしいものがあり、僕は勝手に「珍グランディア」とか呼んでたりする。この手の珍グランディアは、フーリガンの輸出で最高潮に達する。


珍グランドネタはこの辺りで止めて(ホントはもっと珍グランドネタやりたいんだけど)、W杯に話を戻すけど、入場料収入だけでは、とてもじゃないがW杯を黒字採算にすることは難しかった。まったく儲からないので、FIFAに会計監査なんて必要なかった。金になんないからだ。だから、基本的に初期FIFA仕事はボランティアみたいなモンだった。


サッカーに、入場料以外の収入が生み出され始める契機となるのは、ヒットラーがファシズムの宣伝として利用したベルリン・オリンピックあたりからとなる。


ヒトラーは、ベルリン・オリンピックをナチスの宣伝に利用したが、オリンピックが非常に優れたスポーツ用品の宣伝場所になるという事を利用しはじめた靴職人がいたのである。


彼の名はアドルフ・ダスラー。ドイツの靴職人で、後のアディダスの創業者である。



アディダスは如何にしてオリンピックとW杯に入り込んだのか


まず、アドルフ・ダスラーの話から入るけれど、彼は今回のエントリの主役じゃあない。彼の息子が主役である。アドルフ・ダスラーについては、wikipediaに項目があるので、


アドルフ(アディ)・ダスラー(Adolf "Adi" Dassler、1900年11月3日 - 1978年9月6日)は、ドイツのスポーツ用品会社アディダスの創業者。



ドイツ帝国バイエルン王国にあるフランケン地方のヘルツォーゲンアウラハにて靴職人のクリストフ・ダスラーの子として生まれた。彼の父は靴工場で働いていた。


1920年に、靴職人として訓練を受けたアドルフは、第一次世界大戦から帰還すると、母の洗濯室でスポーツシューズの生産を始めた。1924年7月1日にアドルフの兄ルドルフが事業に加わり、ダスラー製靴工場(Gebrüder Dassler Schuhfabrik)が設立された。


アドルフはオランダ・アムステルダムで開催された1928年アムステルダムオリンピックで多くのアスリートに良質なシューズを供給し、会社の国際的発展の礎を築いた。ベルリンで開催された1936年ベルリンオリンピックにおいて、ダスラーはアメリカ合衆国のジェシー・オーウェンスにシューズを供給した。アディのシューズを履いたオーウェンスは4つの金メダルを獲得した。


1930年代にアドルフ・ヒトラーが台頭すると、ダスラー兄弟は揃ってナチ党に入ったが、アドルフより兄ルドルフの方がより熱心な国家社会主義者であったとされる[1]。


アドルフがドイツ国防軍のブーツを生産するために残された一方、ルドルフは徴兵され、後にアメリカ軍の捕虜となった[2]。


第二次世界大戦は兄弟とその妻たちの不和を加速させた。ルドルフはアメリカ軍に捕虜にされた際、SSのメンバーだと疑われたが、おそらくその情報はアドルフ以外の誰かによって提供されたものではなかったという[3]。



1948年までに兄弟の反目はさらに進んだ。ルドルフは会社を去り、町の反対側(アウラハ川を挟んだ対岸)にプーマを創業した。このためにダスラー製靴工場は消滅し、アドルフは自らのニックネーム(アディ・ダスラー)をとって、社名を「アディダス」に改名した。


アドルフ・ダスラー - Wikipedia

面倒なので、まんま引用させてもらうけれど、アドルフ・ダスラーが成功するきっかけとなったのは、黒人スプリンター、ジェシー・オーエンスに靴を提供した事から始まった。陸上競技の四冠王となった彼が履いていたシューズは、瞬く間に一流選手の間で評判となり、ダスラー製靴工場の事業は軌道にのるんだけど、一方で、ダスラー家の兄弟、ルドルフとアドルフの確執は、戦争を挟んで取り返しのつかないものになっていく。


その結果として、二人は袂をわかり、兄のルドルフが「プーマ」を創業し、弟のアドルフは「アディダス」を創業する。世界を股にかけるプーマとアディダスの兄弟喧嘩がココに始まりを告げる。



プーマとアディダスの喧嘩のどこがFIFAとW杯と関係あるの?って思う人、この話は、ここからが本番なんだ。



この戦いで、最初に大きな勝利を収めたのは、アディダスだった。1954年、スイスW杯での事だ。この大会で、ドイツ代表は決勝まで進んだ。ドイツを決勝で待ち構えていた相手は、「マジック・マジャール」と呼ばれ、国際試合で4年半にわたって不敗を続けたハンガリー代表だった。ドイツ代表は、予選でハンガリーに3-8で負けており、決勝の予想は、ほぼハンガリーの勝利で一致していた。


後世では「ベルンの戦い」と呼ばれる、この一戦において、ハンガリーは序盤にと2点のリードを奪う。ところが前半終了間際にドイツは2点取り返し、後半にはドイツが3点目を決めて逆転に成功。スイス大会の覇者は西ドイツとなった。



この試合で、アディダスとアドルフ・ダスラーは、ドイツ代表に「取り替え式スタッド」がついたシューズ(当時としては最新式)を提供していた。試合の朝、雲ひとつなかったものの、スタジアムへの移動中に雨が降り出した。それを見たドイツ監督は、チームに同行してたアドルフ・ダスラーに、スタッドの交換を依頼。これがドイツチームの勝利に貢献したとして、「取り替え式スタッド」のスパイクは、サッカーのスパイク市場を席巻することになる。


とはいえ、ルドルフも黙ってやられっぱなしになっていたわけではなく、ドイツのプロサッカークラブの大半を顧客として抑えていたんだが。



しかし、この二つのブランドの対立をやがては、ドイツ国内の陸上選手の知るところとなり、それを利用しようとする選手が当然でてくる。アルミン・ハリー、当時100mで世界記録の10秒0を保持していた唯一の陸上選手は、この対立を利用して、プーマとアディダスの双方から現金を引き出すことに成功している。「現金いり茶封筒」を双方に要求し、1960年のローマオリンピックでは金銭面でも大成功を収めた。その結果として、アディダスからは出入り禁止を食らうことになるが。


オリンピック出場選手が現金を受け取ることは、当時は禁止されていた。ただ、そんな事はおかまいなしに、アディダスとプーマは、自分達のシューズを履いて貰う為に、選手の買収合戦を繰り広げていた。現金いりの茶封筒が裏でやりとりされていたのである。



ローマオリンピック以降、この手の現金入り茶封筒は、もはや公然の秘密と化すことになる。プーマとアディダスはロッカールームに茶封筒を散乱させており、五輪の「アマチュアイズム」は、形骸化していった。オリンピックの花形である陸上競技、そして陸上競技に次いで入場者数が多いサッカーは、こうして「裏金」に蝕まれていったのである。


この手の裏金は、当時を代表するフットボーラーも当然関係している。ペレ、ベッケンバウアー、マラドーナ、クライフのBIG4も例外じゃない。マラドーナはスキャンダル大杉なので、ほっとくとして、ペレ、クライフ、ベッケンバウアーの三人に共通するのは、このプーマとアディダスの戦争から、上手い事、金を引き出すことに成功したって事。ペレとクライフはプーマから、ベッケンバウアーはアディダスから莫大な特別手当を引き出している。実はこの四人、金に汚い所で共通していて、現役時代は、堂々と裏金要求するような連中だった。



こういった特別手当、現金入り茶封筒は、主に二つのシューズメーカー、アディダスとプーマの骨肉の争いから生み出された。しかし、これはあくまで、選手を広告塔として、自陣営に引き込もうとする動機によるもので、FIFAやIOC自体には、全く関係の無い話だった。シューズメーカーが選手に裏金渡した所で、FIFAやIOCには一銭もはいってこないからだ。



ところが、ある男の登場が、これを一変させていくことになる。その男の名前は、ホルスト・ダスラー。アディダスの創業者、アドルフ・ダスラーの息子であり、1970~1980年代のスポーツを裏で操っていたフィクサーである。人物的には、スポーツ政治における田中角栄と思って貰えば良い。


彼が今回のエントリの主役である。



ホルスト・ダスラーとスポーツマーケティングの登場


ホルスト・ダスラーが、スポーツの世界に初めて顔を出したのは、メルボルン・オリンピックだった。この時、彼は20才。しかし、彼の非凡な才能は、メルボルンで即座に発揮された。彼はメルボルンに降り立つと、アディダスの小売店に行き、そこで「シューズの無料配布」を提案する。そんな事をしたら、靴が売れなくなるじゃないかと小売店側は渋ったが、「スリーストライプを履いた選手がゴールテープを切ること以上に効果的な宣伝はない」と言って、店主を納得させると、「好きな靴を選んでくれ」といって選手団を店に招待しだしたのである。この後、五輪の選手村では、大きなリュックを背負って、スパイクをタダでくれる愛想のいいドイツ人青年は評判になった。ここから、彼のキャリアはスタートしたと言って良い。



しかし、彼のキャリアは、順風満帆にはいかなかった。メルボルンから帰国して、ホルストは会社での決定権の向上を望んだものの、両親はそれを受け入れてくれなかったのである。そのため、両親との関係がギクシャクしたものとなっていた。さらに、カソリックの彼がプロテスタントのモニカ・シェーファーを伴侶として望んだことも、両親との関係を悪化させた。


そのため、両親は一時的にホルストを、アルザスの工場の責任者にして、家から出すことにする。こうして、虎は野に放たれた。


ホルストと「アディダス・フランス」は、この後、ドイツ本社とは切り離され、空前絶後のスポーツ帝国の建設に邁進していくことになる。(ちなみにモニカとはその後すぐ結婚している)



アルザスに居を構えたホルストは、ありとあらゆる障害を無視して突き進んだ。彼の有名な特徴として、「ほとんど眠らない」というのがある。夜の12時まで会議をしておいて、朝の7時にランニングをはじめる。しかも、深夜でも何かアイデアが閃くと電話かけてくる、深夜二時まで会議しといて、朝に深夜放送の感想を聞いてくるetc...


ただ、何よりも彼の人物としての特徴で、触れておかなければならないのは、「人たらし」の側面である。田中角栄と非常によく似ているのだが、ホイストは、とにかく他人を操るのが上手かった。彼のモットーは「ビジネスは人間関係」であり、信じられないほど多くのスポーツ選手、関係の名前を覚え、さらに彼らの家族の構成まで知っていた。スポーツ選手と知り合いになると、すぐに食事に誘い、家族にプレゼントをし、必要であれば、選手に気前良く小切手を渡した。睡眠をほとんど必要とせず、疲れを知らぬ仕事ぶりと、スポーツ選手とスポーツ関係者とすぐに友人になる能力。これが彼の特徴だった。部下にもそれを要求し、アディダス・フランスの社員達は、スポーツ選手と関係者に、どんどん接近していく事になっていく。(これは現在でも続いてる)



ホルストとアディダス・フランスは次第に、本社、アディダス・ドイツと険悪になっていく。原因は、彼らがドイツから国際市場での売上を奪いはじめたからである。ホルストは、アディダス・フランスの収益を増加させるため、海外事業を必要としていた。さらには、バスケシューズ、テニスシューズ、スイムウェアにまで参入し、新ブランドを設立し、輸出ビジネスでは、本社を超える勢いで伸ばしていった。結果として、両親との間は、さらに冷え込んでいくことになる。もはや、ドイツとフランスは、一つの企業でなく、ライバルといった関係にまでなっていった。



ホルストは、こうしてアディダスを様々なスポーツの分野に広げ、世界中にスポーツ関係の友人をつくり(アフリカからソ連、共産圏、アジア、日本にまで)、国際的なスポーツの帝国を作り上げていったんだが、彼が、W杯とオリンピック、この二つを手に入れるキッカケとなったのが、1974年のFIFA会長選である。そう、ブラッターの師匠、アベランジェがFIFA会長になった会長選だ。


ホルストは当初、アベランジェの対立候補だった、スタンリー・ラウスFIFA会長を支持していた。ホルストは、自慢のコネクションを利用して、共産圏の票をとりまとめていた。実は、アベランジェはソ連を味方につけており、ソ連に共産圏の票をとりまとめてもらい、共産圏の票は、全てアベランジェに入るはずだったのだが。アベランジェは、ここで、ホルストが敵に回すと厄介な相手だと知った。


ホルストは会長選前夜、知人からラウスは負けると断言された。理由はアフリカ諸国がアベランジェ支持に回ったからである。ここでホルストは方針転換する。ラウス支持からアベランジェ支持に乗り換えたのである。即座にアベランジェのホテルを訪ね、以後、ホルストはアベランジェの強力な資金源となる。



アベランジェは、選挙公約として、W杯の出場国の増加、ユース世代の国際大会開催、途上国へのサッカー振興のための投資を約束していた。これは金がかかる話であり、資金源を必要としていた。そして、そこに現れたのがホルスト・ダスラーだったのである。



ただ、ここで問題が残った。アベランジェのプロジェクトの資金源をどうやって調達してくるかという点だ。これは莫大な資金が必要だったので、スポーツ選手に小切手切るのとは訳が違った。



ここで、ホルストが目をつけたのが、「スポーツマーケティング」で名を上げはじめた会社、「ウェスト・ナリー社」となる。スポーツマーケティングというと、何してるかわからないから、その内容を具体的にいえば、



1,スポーツイベントのブランディングを手伝う
2、スポーツのスポンサーになって、イメージを向上させたい企業を探してくる。
3、スポーツイベントとスポンサーを結びつけて、仲介料を取る



というビジネスモデルだ。この手法は、特に従来型の広告が禁止されつつあったタバコ産業に興味をもたれたという。



ホルストは、ウェスト・ナリー社と手を組むことにした。そして、まず、1975年、コカ・コーラをFIFAのスポンサーに迎え入れる。この契約が契機となって、次々と契約を獲得、1978年のアルゼンチンW杯では、2200万スイスフランをスポンサーから集めることに成功した。アベランジェは、この資金を遣って(バラまいて)、己の支持基盤を絶対的なモノにしていく。ホルストは、その援助をし、スポーツマーケティングで仲介料をたっぷり取るという仕組みがここに出来上がった。この後、W杯では基本的に、特定のスポーツマーケティング会社が、放映権の交渉権とスポンサーの選定権を独占して、たっぷりと仲介料を取るという仕組みが出来上がる。そして、現在に至るまでの、スポーツマーケティング会社とFIFA幹部の癒着とも言える構造が、ここから始まるのである。今回の}FIFAの汚職騒ぎで、スポーツマーケティングの会社の幹部まで逮捕されているので、この癒着構造の故である。



こうして、ホルストは、FIFAを手に入れた。そして、ホルストは、次の獲物を狙い定める。そう、オリンピックだ。ここで、ホルストが目をつけたのが、フアン・アントニオ・サラマンチだった。ホルストは、今回は乗る馬を間違わなかった。1980年の選挙でサマランチがIOC会長職につくと、狙っていた獲物を手に入れる。


ここで、ホルストが欲しがったのが、五輪の放映権の交渉権とスポンサーの選定権だった。サマランチを窓口にして、IOCに入り込み、この二つを手に入れる。サマランチは、五輪の放映権料とスポンサー収入によって自分の権力の基盤を固めることが出来るし、ホルストは、そこから、たっぷりと仲介料を取るという仕組みだった。


ホルストの能力は、1981年のIOC総会における開催地決定で遺憾なく発揮された。開催候補地としては、名古屋が優勢と思われていたが、ホルストはソウルを選び、韓国側にIOC委員の票まとめをする見返りとして、五輪の放映権の交渉権とスポンサーの選定権を手に入れたのである。この招致活動では、札束が乱れ飛んだと言われる。放映権とスポンサー収入から入る仲介料はそれほどに莫大な利権となっていったのである。やはり、IOCでも、スポーツマーケティング会社とIOC幹部の癒着とも言える構造が、ここに出来上がった。



そして、1982年、ホルストは、ここでウェスト・ナリー社と手を切り、日本の電通と手を組んでISL社を立ち上げる。ここにも面白い話があるんだが、そこは割愛する。社長はクラウス・ヘンペル。こいつはこの後で重要な仕事をするが、それは後述。ISLは、1983年に世界陸上の権利を手に入れると、1985年には公式にIOCと契約。これで、世界陸上、オリンピック、W杯、全てがホルストの傘下に収まったことになる。スポーツマーケティング会社としては、ISLはほぼ全てを手に入れたと言っても良い。



こうして、スポーツ界におけるホルストの帝国は完成した。


ただ、ホルストの物語は、ここで終わりを告げる。彼は、ガンに冒され、1987年、51才でこの世を去った。ホルストの死は、ホルストを後ろ盾としていたFIFA会長のアベランジェ、IOCのサマランチにとって、大きな痛手となった。



主役はここで退場する訳だが、今回の話は、まだもうちょっと続く。




冷戦の終了と衛星放送の登場と放映権料の高騰

ここからは最近の話になってくる。ホルストはソ連の崩壊前にこの世を去ったので、この後の物語は、彼の部下だったり、彼の薫陶を受けた人々によって進行する。


まず、ヨーロッパの話になるんだけど、1980年代くらいまで、ヨーロッパでは地上波が少なく、ほとんどが公営放送だった。そのため、CM枠がなく、企業はTVCMを打てないという状況が長い事続いていた。80年代から多チャンネル化が進むんだが、1990年代に入ると、冷戦が終了し、軍事衛星が民間に払い下げられた。これによって、衛星放送局が誕生することになるんだが、イギリスのBskyBは、イングランドのプレミアリーグの放送を独占するというやり方で、93年には単年黒字化を達成し、世界を驚かせた。


BskyBは、その後、五輪でのヨーロッパでの独占放送権をオファーしたとも言われる。ただ、衛星放送にも弱みがあり、「五輪やWカップのような公共性が高い国際大会は有料放送による独占を禁じるべきだ」という声が欧州では根強く、これらのコンテンツを独占放送できなくなっている。


そのため、五輪やW杯を買うのは、主に誰でも見られる電波を飛ばす放送局に限られるようになっている。もっとも、それでも五輪やW杯の放映権料はうなぎ上りなんだが。



この手の優良スポーツコンテンツは、「キラーコンテンツ」と呼ばれ、多チャンネル時代の視聴者獲得の切り札として、この独占権を巡る入札競争が世界中で行われるようになった。この結果として、プレミアリーグ、チャンピオンズリーグ、W杯、五輪の放映権は、天井知らずの値段がつくようになったのである。



ここで、話が、ISLに戻る。ホイスト・ダスラーの死後、ISLの管理は、ホルストの末の妹の夫、クリストファー・マルムスに引き継がれた。前社長のクラウス・ヘンペルは、マルムスと反りが合わず、退社する。(実際は権力争いに負けた、という見方もできる)


なんだが、ヘンペルの退社パーティの際、そこに招かれていたUEFA会長レナード・ヨハンソンがヘンペルに声をかけ、CLの前身であったECCのリニューアルに誘いいれた事から話が一気に進む。



ヘンペルは、その後、すぐにスポーツマーケティング会社「TEAM」を設立。そして、ECCをCLにリニューアルする構想をぶち上げる。これは、現行のCLとほぼ変わらない内容であり、スポーツマーケティングとしての儲け方も変わらない。


1,スポーツイベントのブランディングを手伝う
2、スポーツのスポンサーになって、イメージを向上させたい企業を探してくる。
3、スポーツイベントとスポンサーを結びつけて、仲介料を取る


という流れである。ただし、ここで、CLは、W杯や五輪のような公共性のあるコンテンツとは違う為、衛星放送で放映権をほぼ独占することが可能だった。そのため、放映権はとても高く売ることが可能だったのである。



その後の流れは、皆さん、ご存じの通り。CLは欧州サッカー、究極のキラーコンテンツとなり、年間1200億の放映権料を生み出すモンスターコンテンツとなる。



同時期、ISLのディレクターのマイケル・ペインも、五輪の放映権料を扱うIOCマーケティング社にヘッドハントされ、五輪の放映権契約についてまとめている。こっちは、ユニバーサルアクセス権との関係上、有料放送には放映権は売れなかった。



CLの商業化は、UEFAとスポーツマーケティング会社TEAMのタッグで進められ、莫大な富を生み出すようになっていくんだが、一方で問題も生み出した。CLがもの凄く儲かるコンペティションになったものの、その基本的な運営についてはUEFAとTEAMが独占的に管理している状態だった。


ここに反旗を翻したのが、CLの主役であるビッグクラブ達と巨大メディア資本(ベルルスコーニ、マードック、キルヒ)だった。彼らは、1997年、「スーパーリーグ構想」をぶち上げた。UEFAを脱退して、ヨーロッパのビッグクラブのみが参加する「ヨーロッパ・フットボール・リーグ」の設立を画策したんである。



ここに来て、UEFAはビッグクラブに譲歩せざるを得なくなり、ビッグクラブは分配金の大幅増加を手にすることできた。以後、ビッグクラブは、CLから得た金で選手を買いあさってさらに強くなるという特権的な地位を享受できるようなる。


そして「ビッグクラブのビッグクラブによるビッグクラブのためのCL」という状態が出来上がった。CLに中小クラブが出ても、翌年主力を引き抜かれるだけ、美味しい所は欧州のビッグクラブが総取り、強者による総取りで、周辺国のクラブはビッグクラブの引き立て役、そんなコンペティションになってしまったのである。


そして、ここに登場するのがプラティニである。プラティニは、UEFA会長に立候補する際、自分の票田としたのが東欧などの中小国だった。UEFAの会長選では、ヨーロッパ内ではどこも一協会一票である。なので、高まりつつある中小国の不満、ビッグクラブによるCLの富の独占という状況にプラティニは目をつけた訳だ。プラティニは、中小国へのCLの門戸開放を最大の目玉として、UEFA会長選に望んだわけだ。中小国にとって、これほど有難い話はないからだ。



皮肉な話だが、プラティニのやり方は、アベランジェやブラッターがやったのとほとんど同じだ。アベランジェとブラッターはW杯の利益が欧州に独占されている事に対するアジアやアフリカの不満を利用し、会長選では反欧州・親アジア・アフリカとしての立場を明確にすることで、アジアとアフリカを支持基盤として会長選を勝ち抜いてきた。プラティニは、欧州をビッグクラブに変え、アジアとアフリカを東欧・ヨーロッパ中小国に変えたものに過ぎない。


プラティニのやり方をみていると、ブレーンについてるのは、多分、元アディダスの連中なんだろう。



疲れてきたし、大体、流れは説明し終えたので、そろそろまとめる。



現状、W杯とオリンピックは「儲からない赤字イベント」から、「大量の富を生み出すイベント」になった。しかも、双方共に、一つの団体が市場を独占している。そのうえ、外部から監査や規制をほとんど受けていない。つまり、利権団体なのである。これが何を生み出すかというと、「利権団体+外部からの監査がない+市場を独占している」、とくれば、必然的に腐敗が生じる。




1980年代から始まったスポーツマーケティングの隆盛は、それまで赤字経営だったIOCとFIFAに多大な富をもたらし、そこに放映権料の高騰も相まって、今や、W杯と五輪は、世界で最も儲かり、そして最も腐敗したイベントになった訳だ。



UEFAもいずれそうなる。というか、すでにそうなってるんだろうが、CLがあれほど富を生み出し続けている以上、スキャンダルが出てくるのは時間の問題だ。以前、CLの抽選がやらせだってアレは出たけど、あんなモンじゃすまないスキャンダルはいずれ出る。根本的に、UEFAも、FIFAやIOCと同じく、監視機能がない利権団体なんだから、腐敗するのは当たり前なのだ。




という訳で、これで大体、FIFAやIOCが腐敗していく流れはまとめ終わったので、これでおしまい。呼んでくれた人、サンキュー。






全部読むのかったるいという人の為のまとめ、w杯と五輪の腐敗の歴史

WW2以前   ファシストによる五輪、W杯の利用、ムッソリーニのイタリアW杯、ヒトラーのベルリンオリンピック。


1950~1960 二大靴メーカー、アディダスとプーマによる陸上競技、サッカーの選手獲得競争。ロッカールームには現金入り茶封筒が散乱する。プーマとアディダスは、自分の靴を有名選手に履いて貰う為、ありとあらゆる手段を尽くすようになる。



1970~1990 スポーツマーケティングの開始。五輪とW杯の収入が、チケット収入メインから、広告収入メインに切り替わる。IOCとFIFAの収入は以後、激増する。それと同時に内部の腐敗が進行する。また開催地の負担が減ったことで、招致運動が活発化。それに伴って、招致活動の不正が深刻化する。


1990 冷戦の終了。それと同時に軍事衛星が民間に払い下げられ、衛星放送が開始される。国際試合を全世界に中継することが可能になり、スポーツはキラーコンテンツとなる。放映権料ビジネスが金脈となる。五輪とW杯は放映権料メインとなっていく。腐敗が深刻なレベルに達し、五輪などでは改革が試みられるようになる。



2000~ インターネットの登場で、オンラインでのスポーツギャンブルが流行する。結果として、オンライン賭博による国際規模のスポーツ八百長が仕組まれるようになる。FIFAの汚職が臨界を突破し、司法の手無しでは浄化不可能な段階に達する ←new!