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ナイキは如何にしてスポーツ&フィットネスの市場を牛耳るに至ったか(スポーツとお金の話の記事の参考書籍の紹介もあるよ)

ブログの題名が「サッカーレポート」なのに、サッカーレポート以外の話題を3回連続でする男、スパイダーマン!ではなく、pal9999どす、こんにちは。



ここんとこ、ずーーっとスポーツと金の話ばっかしてる訳だが、今回もスポーツとお金の話である。ただし、今回は、現在、スポーツ&フィットネスの市場でNo1企業、ナイキの話がメインとなる。


今回の話は、前回、前々回の話の続きでもあるので、これまでの記事を読んでない人は、そっちから読んで頂けると助かる。このエントリだけ読んでも意味不明なだけである。




前回、前々回のエントリの参考書籍

前回、前々回とFIFA関連の話、スポーツとお金の話をしてきた訳だけれど、何人かの方から「参考書籍教えてくれ」という要望があったので、参考書籍を紹介しておく。簡単な書評もついでにやっておく。




サッカーの国際政治学 (講談社現代新書)

サッカーの国際政治学 (講談社現代新書)



「サッカーの国際政治学」小倉純二著。これは元FIFA理事の小倉さんの本だ。FIFA内部の話を知りたいなら、まずこの本が最初に読んでおくべき本になる。元理事なので、内部の事情に詳しいし、南アフリカW杯の際の、開催地投票に関しての、小倉さんの票読みも本の中に記されている。


それでなんだが、


不正は常習化…2010年W杯はモロッコ開催だった



先日、こんな記事がでていたけれど、これねえ、小倉さんの本読めば、イスマエル・バンジー元理事の証言には色々とアレな所があるんだよね。小倉さんは、南アフリカ対モロッコの決戦投票の結果から、各国の票読みをしてるんだけど、この票読みの際、「モロッコに投票したと思われる理事が投票後、パーティに参加せず、席を立って帰った」って話してるんだ。


なんで、モロッコが2票差で勝っていたら、その際に13人がパーティーに参加せずに帰ってないとおかしい。でも、現実には、15人がパーティーに残って、9人が帰ってる訳だ。バンジー元理事の証言は、正直言って、小倉さんの話と整合性がない。


なので、このニュースは、政治的なアレだと思われるンだ。この先、紹介する本にも記述があるけど、メディアに情報リークして対抗陣営潰しをやるって政治ゲームは、FIFAでは散々行われてる。




アディダスVSプーマ もうひとつの代理戦争

アディダスVSプーマ もうひとつの代理戦争


この本は、アディダスとプーマの間の戦争を描いた本としては、日本語で読める本の中では最良の本。ダスラー家の愛憎の歴史から、アディダスとプーマがダスラー家の手を離れるまでを克明に記録している。ついでに靴メーカーの話でもあるので、ナイキやリーボックの話も含まれてるし、アディダスとプーマが陸上やらサッカーの歴史の裏で、どんな事をしていたのかってのがよくわかる。


ちなみに、この本、結構な分量で日本の話が書かれている。プロローグは、中村俊輔がアディダスと契約する話から始まる程度に、日本の話が結構ある。


前回のエントリの主役である、ホルスト・ダスラーの人物像を知りたい人は、この本が一番オススメ。




W杯(ワールドカップ)に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇 (新潮文庫)

W杯(ワールドカップ)に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇 (新潮文庫)



この本は、FIFAの前代会長、アベランジェを主役として、FIFA、電通、アディダスなどが繰り広げるマネーゲーム、2002年日韓W杯の招致ゲームなどをまとめた本。W杯の招致や、五輪の招致において、韓国がどんな事してたのかといった話や、電通とISL設立から、電通がISLから手を引くまでの裏話など、興味深い話が沢山載っている。「W杯ビジネス30年戦争」の改題だが、文庫本のほうが加筆されてるので、文庫本を買うのがオススメ。


ちなみに、この本でも結構な量、ホルスト・ダスラーが登場する。この時期のスポーツ界で、ホルスト・ダスラーが如何に影響力があったのかってのがよくわかる。





オリンピックの汚れた貴族

オリンピックの汚れた貴族

  • 作者: アンドリュージェニングス,Andrew Jennings,野川春夫
  • 出版社/メーカー: サイエンティスト社
  • 発売日: 1998/02
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る



これは「黒い輪」で有名なアンドリュー・ジェニングスの五輪本。主にサマランチと、その取り巻きの批判であったり、IOC委員の、招致合戦でのたかり行為なんかを徹底的にこき下ろしている本。内容は「黒い輪」の時と同じで、五輪におけるドーピングの蔓延の暴露も当然やってる。尿検査の際、膀胱に「綺麗な尿を注射しておく」なんて話は、股間がキュンとなる。



この本でも、やっぱりホルスト・ダスラーは大活躍・・・というか、しょっちゅう名前がでてくるんで(悪い意味で)、ホルストマニアな人はどうぞ。この本は五輪の腐敗を専門に扱った本なんで、FIFAの汚職とは直接的には関係ないんだけれどもね。ただ、この本では、FIFAのアベランジェや、ホルスト・ダスラーの名前がしばしば出てくるわけで、スポーツ政治の話を知りたいなら、やっぱり読んでおいたほうがいい訳なんだけれども。



スポーツと権利ビジネス―時代を先取りするマーケティング・プログラムの誕生

スポーツと権利ビジネス―時代を先取りするマーケティング・プログラムの誕生

スポーツマーケティングの世紀

スポーツマーケティングの世紀



この二冊は、ここまで紹介してきた本とはちょっと毛色が違って、スポーツマーケティングの話がメインの本。といっても、結局、スポーツマーケティングの話になると、ホルスト・ダスラーの話になるので、ホルストの話がどっちにも載っている。ちなみに、「スポーツと権利ビジネス」のほうには、オリンピックを黒字に変えた男、ピーター・ユベロスの話と、のちにIOCのマーケティング担当になるマイケル・ペインの話にかなりの分量が割かれている。ピーター・ユベロスとマイケル・ペインは、現在のオリンピックのスポーツマーケティングの成立に、大きな役割を果たしている。



チャンピオンズリーグの20年 ---サッカー最高峰の舞台はいかに進化してきたか

チャンピオンズリーグの20年 ---サッカー最高峰の舞台はいかに進化してきたか



この本は、ホルスト・ダスラーの話や、FIFAのアベランジェ、ブラッターの政治の話は殆ど無い。ただし、クラウス・ヘンペル(元ISL社長)がスポーツマーケティング会社「TEAM」を設立してから、どのようにCLをブランディングして、CLを巨大化させていったか、そしてプラティニがどうやって権力を握ったのかって過程がよくわかる本なんで、そっちを知りたい人にはこの本がオススメ。




コカ・コーラ帝国の興亡―100年の商魂と生き残り戦略

コカ・コーラ帝国の興亡―100年の商魂と生き残り戦略


この本は、エントリとは直接関係ないんだけど、1970年代以降、なぜ多国籍大企業が、スポーツのスポンサーにつくようになったのか、それを理解するには良い本なので紹介しておく。



とまあ、これで前回、前々回の話の参考書籍の紹介は、おしまい。次にナイキの話をする。「何でナイキ?サッカーと関係ないやろ」と思う人がいるかもしんないね。でもね、ナイキがスポーツ&フィットネスの市場を牛耳るまでに、彼らがやったことは、現在のサッカーと深く関係してくるんだ。



創生期のナイキ(1964~1980)

こっからが今回のエントリの主題。スポーツとお金の話をする際、やっぱりナイキの話は絶対に絶対に絶対に外せない。というのも、ナイキは、現在までのスポーツ・マーケティングにおける最も重要な流れを作った企業だからだ。ホルスト・ダスラーとナイキは、スポーツ・マーケティングの話をする際に絶対に外せない。



ナイキという会社は、オレゴン大学で会計を専攻していた、中距離ランナーのフィル・ナイトと、そのコーチだったビル・バウワーマンが始めた会社である。


そもそも、ナイトがスポーツ用品会社をつくったきっかけとなったのは、ビジネススクールの授業で、「架空の事業を想定し、その設立目的とマーケティング目的を呼べよ」という課題が出た時に遡る。



ナイトはこの時、


1,バウワーマンがしばしばアディダスを含むランニングシューズに不満を漏らしていたこと
2、日本製の安価なカメラが、高価で歴史のあるライカのカメラにとって変わるであろうか?というカメラマン達の議論



の二つの記憶を元にレポートを提出した。「日本製シューズは低価格低品質と言われるが、日本メーカーが高品質のランニングシューズを作れるなら価格による差別化で日本メーカーは新たなマーケットを開くことができるだろう」というもの。



その後、ナイトは普通の会計事務所に就職するんだが、日本に旅行した際、オニツカタイガー(現アシックス)のランニングシューズを手に入れた事が、ナイトの運命を変えることになる。



ナイトは、シューズをアメリカに持ち帰り、バウワーマンに見せた所、バウワーマンの反応は「この靴は悪くない」だった。そして1964年、ビルとバウワーマンは500ドルずつを出資して、ブルーリボンスポーツ社(後のナイキ)を設立し、日本で生産されたランニングシューズをアメリカで売るという輸入ビジネスを発足させる。



現在の社名、「ナイキ」が生まれたのは、1971年。オニツカタイガーが販売権を他の業者に与えるのではないかと不安になってきたナイトが、自社の靴に新たなブランドとマークをつけようとした時から始まる。この時から、スウォッシュのマークと、「ナイキ」のシューズの歴史が始まるわけだ。(この後、オニツカタイガーとは揉めて裁判起こされることになる。)



ナイキが成長するにあたって、最初に追い風になったのは、1970年代後半から起こったジョギング・ブームだった。ナイキは当初、陸上競技から事業をスタートさせたが、ジョギング・ブームからフィットネスにも力を入れ始める。こうして現在に至るまでの、「スポーツ&フィットネス」企業、ナイキが形作られることになるわけだ。ランニングシューズの売上が急激に伸び、それに伴ってナイキの売上は、1970年代後半には、1000万ドルから2億7000万ドルまで伸びることになる。そして、1980年、ついにナイキはアディダスのアメリカ市場の市場支配を終わらせる。


この時期、アメリカの靴の市場では、堅い皮の靴がシェアを失って、スニーカーに代表されるような柔らかい靴がシェアを持ち始める。この流れに乗ったのがナイキやリーボックで、この流れを見失っていたのがアディダスなんかになる。


ただ、アディダスがそうであったように、ナイキも「フィットネス」関連の市場の発展に乗り遅れてしまった部分があった。もっともアディダスは、ジョギングブーム自体を気にかけていなかった部分があり、その事がナイキとリーボックの台頭を許す原因になるんだが。アディダスの靴職人達は、ランニングシューズや、ナイキの有名な「ワッフルトレーナー」を、てんで気にかけなかった。ワッフルトレーナーに関しては、ジョークだとすら思っていたそうだ。だが、後にその事が大間違いだと気付かされることになる。


話をナイキに戻すけれど、ナイキはジョギングブームにのって、業績を拡大させていったんだけれど、大きいなミスをしてしまった。それは1982年から発売されたリーボックのエアロビックス用シューズ「フリースタイル」の過小評価だ。アディダスもナイキも、「フリースタイル」の流行は一時的なものだと考えていた。その事がリーボックの台頭を許す原因となる。フリースタイルは空前の大ヒット商品となり、リーボックは一時はアメリカ市場でもっとも大きなシェアを握るシューズメーカーになるのである。




ナイキはリーボックの攻勢に対して、1980年代、一時はレイオフを含む組織再編にまで追い込まれたものの、この時期、ナイキのその後の路線を決定することになる、一人のスポーツ選手がナイキと契約する。



その名は誰でも知っているだろ。バスケットの神様、マイケル・ジョーダンだ。




ヒーロー製造会社ナイキ

こっから先の話は誰でも知ってる内容なんだが、マイケル・ジョーダンがNBAに入ったのが1984年。そして、ナイキでは「彼との契約は賭けだった」とも言われるが、ナイキは5年250万ドルの契約を交わす。そして、ジョーダンはナイキが彼のために特注した赤と黒のシューズを履くようになり(当時、NBAでは白のシューズしか認められておらず、ジョーダンとナイキは罰金払いながらのプレーになった)、これがさらに話題を呼んだ。1985年、エアジョーダンがナイキからリリースされ、これは爆発的なヒットとなり、一年で1億3000万ドルを売り上げ、当時、低迷していたナイキを蘇らせたのである。


それだけではなく、エアジョーダンの発売後、スニーカーとバスケットシューズは、サブカルチャーではなくなった。バスケットシューズはアメリカでの売上の6割を占めるまでになり、その後のスニーカーブームに繋がっていく。



とまあ、このあたりは誰でも知ってる事だろう。



こっからは、ナイキの功罪半ばする話になる。



マイケル・ジョーダンは世界的なスーパースターになり、ナイキはエアジョーダンで大もうけすることに成功した。ナイキではジョーダンが現役だった時代を「黄金時代」と呼ぶそうだが、この時期に驚異的なスピードでナイキの売上は伸びていった。



この時期に、ナイキがやった事、それは、マイケル・ジョーダンの



「フィル(ナイト)とナイキがやったのは、わたしを夢の対象にすることだった」



という言葉が端的に表している。ナイキはヒーローを作り上げたのだ。スポーツ選手を使って売り込みをかける、というのは、それ以前から頻繁に使われてきた手だった。しかし、ナイキはそれを一歩前に推し進めてしまった。自身でヒーローを生み出しはじめたのだ。どういう事かというと、選手のイメージを作り上げて、選手を神格化させていったんだ。選手のブランディングを徹底的に会社ぐるみで行うようになった。


ナイキのノンフィク本、「just do it」からの引用になるけど、

「ナイキがついていなければ、マイケル・ジョーダンには何の影響力もない」by フィル・ナイト(ジョーダンはナイトがこういったのを覚えている。ナイトはそんな言い方はしてないと言ってるが。)

18世紀後半の製品に国王や女王の承認印がつけられていたように、消費文化のもとでは、有名人に品質保証されるという要素は欠かせないものである。しかし、ナイキは、そうした品質保証とそこから生じるマーケティングを、きわめて金のかかる特定の形式に変換したのである。

「今や、スポーツを通じて達成できるレベルが二つあるようだ」発足したばかりのスポーツ・マネジメント部で部長を務めるフレッド・シュライアは言った。「スポーツそのものでの成功と、マーケティングの世界での成功だ。今や後者の達成も義務づけられているかのようだ。より高い地位まで導いてくれるマーケティング組織がついていなければ,エリートとはいえないような状態になっている」


こういうモノだ。ナイキは、マーケティングというお題目の下で、ナイキと契約した選手のイメージを極めて精巧に作り上げ、そして、そのイメージを使って商品を売り込んでいった。マイケル・ジョーダン、アンドレ・アガシ、タイガー・ウッズ、ランス・アームストロング・・・・彼らのパブリックイメージは、ナイキによって細心の注意を払って作り上げられた、いわば架空のイメージと言って良いものだった。それは、商品を売り込む為には必要なものだったかもしれないけれど、神に祭り上げられた、タダの人間にとってはたまったものじゃなかった。あのジョーダンでさえ。


アンドレ・アガシは、「just do it」の中で

「みんなが見たがっているのは、ナイキのコマーシャルにでてくるアンドレ・アガシなんだ」


「みんなが俺に求めているのは、ガキっぽくコートを飛び回ることや、イカしたナイキの広告の中で、猛スピードで珠を打ち付ける姿なんだ。本当のアンドレ・アガシなんて退屈なガキだよ。本当のアンドレは、友達とラスベガスをうろついたり、映画に行ったりしてるだけ。本当の自分なんて、絶対に人目にさらしたくない」



「人々がみたいもの、そして見るべきものは、現実のものじゃないんだ。人々にプレーさせたり、ものを買わせたりしているのは現実の俺じゃない。連中の頭にあるアンドレ・アガシがそうさせているんだ」


こんな話をしているけれど、ジョーダンやアガシは、自身の姿と、ナイキがコマーシャルで作り上げていく姿の乖離に苦しむ事になる。人々の頭の中にあるジョーダンは、現実にはナイキのコマーシャルの中にしか存在しない。



そして、この手のナイキの「ヒーロー製造器」に乗せられて、ガンから生還し、レースにカムバックしたスーパーヒーローに祭り上げられたのがランス・アームストロング。ほとんどゴルフの聖人君子に祭り上げられたタイガー・ウッズ。この二人は、ナイキが作り上げた仮面がスキャンダルによって剥がされると、その後に待っていたのは、地獄だった。



スター選手をブランディングし、コマーシャルを使ってスーパーヒーローに祭り上げ、スーパーヒーローを使ってスポーツ用品をセールスする。正直、ジョーダンで、あまりに上手くいってしまった為、その後、ナイキは、このやり方でやりすぎてしまった部分がある。それの反動が、ランス・アームストロングとタイガー・ウッズのケースで出てしまった部分がある。(もちろん、両者ともに自業自得な部分もあるんだが)



そして、もっと厄介なのは、この手法が、色んなスポーツの分野に広まってしまった事だった。今や、スポーツ選手というのは、スポーツそのものでの成功だけでなく、マーケティングでの成功出来ないと、エリートと呼べない時代に突入したんである。





以上がナイキの功罪。ナイキは、スポーツ用品市場において、ランニングシューズの先駆けであり、フィットネス革命の仕掛け人でもある。沢山の革新的なシューズも生み出してきた。一方で、スポーツ選手を使ったマーケティング会社、ヒーロー製造会社としての側面を併せ持っており、その手法は、今や、ほとんどのスポーツに広まってしまった。



正直いって、最近のスポーツは、まーるでプロレスみたいに感じる事がある。プロレスってのは、



アングルは、プロレスにおける隠語の一種で、試合展開やリング外の抗争などに関して前もってそれが決められていた仕掛け、段取りや筋書きのこと。試合自体の進行は「ブック」と呼ばれ、アングルはリング外でのストーリー展開を指すことが多い。アングルの組み合わせや展開が観客動員に大きく影響するため、試合内容と同じ重要性を持つ。


アングル (プロレス)


こういう風に、試合の前後に物語を作り上げることで、観客動員をあげようとしているわけだ。最近のスポーツでは、マーケティングの論理が幅効かせているせいか、やたらとストーリーを作って盛り上げようとするもんだから、「プロレスじゃないんだから勘弁してくれよ・・・」と感じる事が多い。



ナイキとジョーダンの成功以降、スポーツはプロレス化してしまった部分がある。サッカーも然り。マーケティングの論理が幅を利かせすぎている部分がある。


とはいえ、それが時代の流れというものなんであり、そのおかげで、スポーツ選手は大金を稼げるようになった訳だから、悪い話では絶対にないのだけれど、素朴だったスポーツの時代を懐かしむ事もあるのである。今日はそんな話でしたとさ。おしまい。

ブラッターが辞任したので、スポーツとお金について書いておく

ブログの題名が「サッカーレポート」なのに、サッカーの政治の話題を二回連続でする男、スパイダーマン!ではなく、pal9999どす、こんにちは。


前回、FIFAの組織の話をしたけど、ブラッターが、



www3.nhk.or.jp



突如、辞任→再選挙、という香ばしい流れになったので、今回は、「FIFAが金満になって、腐敗がはこびるようになっていった」過程について書いとこうと思う。これ、本一冊書けるくらいのネタなんだが。


サッカーの話を読みにきた人には申し訳ないが、本日もFIFAとW杯と政治と腐敗ネタである。


まず、サッカーのW杯なんだけど、


ドイツ大会の収益    17億ドル
南アフリカ大会の収益  36億ドル
ブラジル大会の収益   45億ドル


となっており、オリンピックと並び、世界最大規模のスポーツイベント、収益マシーンと化している。ちなみに、内訳として、約半分は放映権料。残りがスポンサー収入とチケット料である。現在、W杯の収入の大半は、放映権料とスポンサー収入から生まれている。



Wカップがここまで巨大な集金マシーンと化した原因は放映権料、スポンサー収入である。実は、この二つに深く関係している会社と人物がいる。今回はそこに焦点をあててエントリを書いた次第である。



なお、クッソ長いので、最後にまとめを書いた。全部読むのが面倒な人は、最後だけ目を通すだけでも良い。


初期のFIFAとWカップ、FIFAに金がなかった頃の話


この話を始める際、どこから始めるか非常に迷うんだが、とっかかりとして、まだFIFAとW杯に集金力がなかった時代の話から始めようと思う。


まず最初に、第一回のW杯、ウルグアイ大会の時なんだけど、ウルグアイの他にも立候補した国があった。イタリア、オランダ、スペイン、スウェーデンも立候補したんだけど、主催国が参加チームの旅費と滞在費を全て負担という条件を提示されると立候補を取り消した。とにかく金がなかったのである。


今となっては信じられない話かもしれないけど、ウルグアイ開催が決まってからからも、欧州は参加を渋っていた。船で2週間かかる南米への旅への恐怖、大会期間中の選手の給料の支払い問題などから、欧州からウルグアイ大会に参加したのは、たったの4チームだけだった。フランス、ユーゴ、ルーマニア、ベルギーだ。これ、全部、当時の欧州では二流と見られていた国だらけである。


ちなみに、サッカーの母国のイングランドなんだけど、この時期は珍グランドっぷりを遺憾なく発揮している。つまり、英国四協会は、第一次大戦での敵国と中立国が試合を行った事を契機にFIFAを脱退してたりする。当時はWW1の影響で、排他的な雰囲気があったのである。英国四協会は、この頃からFIFAで特権的な地位を求めて脱退と再加入をくり返してたりして、業が深い連中だったりする。基本的に、仏の連中が中心になって結成したFIFAと、英国四協会は初期からあんまり上手く行っていなかった。この辺のしこりは、現在もなお解消されたとは言い難く、英語圏と仏語圏の対立は、現在も続いている。



英国四協会の国際的孤立は、ブラジル大会で、そのツケを支払わされる事になる。「FIFAワールドカップ史上最大の番狂わせ」、「イングランドサッカー史上最大の恥」と呼ばれる、1950年ブラジルW杯におけるアメリカ戦での敗北である。続くスペイン戦もイングランドは落とし、W杯を去ることになる。寄せ集めのアマチュア選手の集団だったアメリカ・チームの勝利は2005年に映画にまでなった。W杯におけるイングランドの歴史は、ものすごく香ばしいものがあり、僕は勝手に「珍グランディア」とか呼んでたりする。この手の珍グランディアは、フーリガンの輸出で最高潮に達する。


珍グランドネタはこの辺りで止めて(ホントはもっと珍グランドネタやりたいんだけど)、W杯に話を戻すけど、入場料収入だけでは、とてもじゃないがW杯を黒字採算にすることは難しかった。まったく儲からないので、FIFAに会計監査なんて必要なかった。金になんないからだ。だから、基本的に初期FIFA仕事はボランティアみたいなモンだった。


サッカーに、入場料以外の収入が生み出され始める契機となるのは、ヒットラーがファシズムの宣伝として利用したベルリン・オリンピックあたりからとなる。


ヒトラーは、ベルリン・オリンピックをナチスの宣伝に利用したが、オリンピックが非常に優れたスポーツ用品の宣伝場所になるという事を利用しはじめた靴職人がいたのである。


彼の名はアドルフ・ダスラー。ドイツの靴職人で、後のアディダスの創業者である。



アディダスは如何にしてオリンピックとW杯に入り込んだのか


まず、アドルフ・ダスラーの話から入るけれど、彼は今回のエントリの主役じゃあない。彼の息子が主役である。アドルフ・ダスラーについては、wikipediaに項目があるので、


アドルフ(アディ)・ダスラー(Adolf "Adi" Dassler、1900年11月3日 - 1978年9月6日)は、ドイツのスポーツ用品会社アディダスの創業者。



ドイツ帝国バイエルン王国にあるフランケン地方のヘルツォーゲンアウラハにて靴職人のクリストフ・ダスラーの子として生まれた。彼の父は靴工場で働いていた。


1920年に、靴職人として訓練を受けたアドルフは、第一次世界大戦から帰還すると、母の洗濯室でスポーツシューズの生産を始めた。1924年7月1日にアドルフの兄ルドルフが事業に加わり、ダスラー製靴工場(Gebrüder Dassler Schuhfabrik)が設立された。


アドルフはオランダ・アムステルダムで開催された1928年アムステルダムオリンピックで多くのアスリートに良質なシューズを供給し、会社の国際的発展の礎を築いた。ベルリンで開催された1936年ベルリンオリンピックにおいて、ダスラーはアメリカ合衆国のジェシー・オーウェンスにシューズを供給した。アディのシューズを履いたオーウェンスは4つの金メダルを獲得した。


1930年代にアドルフ・ヒトラーが台頭すると、ダスラー兄弟は揃ってナチ党に入ったが、アドルフより兄ルドルフの方がより熱心な国家社会主義者であったとされる[1]。


アドルフがドイツ国防軍のブーツを生産するために残された一方、ルドルフは徴兵され、後にアメリカ軍の捕虜となった[2]。


第二次世界大戦は兄弟とその妻たちの不和を加速させた。ルドルフはアメリカ軍に捕虜にされた際、SSのメンバーだと疑われたが、おそらくその情報はアドルフ以外の誰かによって提供されたものではなかったという[3]。



1948年までに兄弟の反目はさらに進んだ。ルドルフは会社を去り、町の反対側(アウラハ川を挟んだ対岸)にプーマを創業した。このためにダスラー製靴工場は消滅し、アドルフは自らのニックネーム(アディ・ダスラー)をとって、社名を「アディダス」に改名した。


アドルフ・ダスラー - Wikipedia

面倒なので、まんま引用させてもらうけれど、アドルフ・ダスラーが成功するきっかけとなったのは、黒人スプリンター、ジェシー・オーエンスに靴を提供した事から始まった。陸上競技の四冠王となった彼が履いていたシューズは、瞬く間に一流選手の間で評判となり、ダスラー製靴工場の事業は軌道にのるんだけど、一方で、ダスラー家の兄弟、ルドルフとアドルフの確執は、戦争を挟んで取り返しのつかないものになっていく。


その結果として、二人は袂をわかり、兄のルドルフが「プーマ」を創業し、弟のアドルフは「アディダス」を創業する。世界を股にかけるプーマとアディダスの兄弟喧嘩がココに始まりを告げる。



プーマとアディダスの喧嘩のどこがFIFAとW杯と関係あるの?って思う人、この話は、ここからが本番なんだ。



この戦いで、最初に大きな勝利を収めたのは、アディダスだった。1954年、スイスW杯での事だ。この大会で、ドイツ代表は決勝まで進んだ。ドイツを決勝で待ち構えていた相手は、「マジック・マジャール」と呼ばれ、国際試合で4年半にわたって不敗を続けたハンガリー代表だった。ドイツ代表は、予選でハンガリーに3-8で負けており、決勝の予想は、ほぼハンガリーの勝利で一致していた。


後世では「ベルンの戦い」と呼ばれる、この一戦において、ハンガリーは序盤にと2点のリードを奪う。ところが前半終了間際にドイツは2点取り返し、後半にはドイツが3点目を決めて逆転に成功。スイス大会の覇者は西ドイツとなった。



この試合で、アディダスとアドルフ・ダスラーは、ドイツ代表に「取り替え式スタッド」がついたシューズ(当時としては最新式)を提供していた。試合の朝、雲ひとつなかったものの、スタジアムへの移動中に雨が降り出した。それを見たドイツ監督は、チームに同行してたアドルフ・ダスラーに、スタッドの交換を依頼。これがドイツチームの勝利に貢献したとして、「取り替え式スタッド」のスパイクは、サッカーのスパイク市場を席巻することになる。


とはいえ、ルドルフも黙ってやられっぱなしになっていたわけではなく、ドイツのプロサッカークラブの大半を顧客として抑えていたんだが。



しかし、この二つのブランドの対立をやがては、ドイツ国内の陸上選手の知るところとなり、それを利用しようとする選手が当然でてくる。アルミン・ハリー、当時100mで世界記録の10秒0を保持していた唯一の陸上選手は、この対立を利用して、プーマとアディダスの双方から現金を引き出すことに成功している。「現金いり茶封筒」を双方に要求し、1960年のローマオリンピックでは金銭面でも大成功を収めた。その結果として、アディダスからは出入り禁止を食らうことになるが。


オリンピック出場選手が現金を受け取ることは、当時は禁止されていた。ただ、そんな事はおかまいなしに、アディダスとプーマは、自分達のシューズを履いて貰う為に、選手の買収合戦を繰り広げていた。現金いりの茶封筒が裏でやりとりされていたのである。



ローマオリンピック以降、この手の現金入り茶封筒は、もはや公然の秘密と化すことになる。プーマとアディダスはロッカールームに茶封筒を散乱させており、五輪の「アマチュアイズム」は、形骸化していった。オリンピックの花形である陸上競技、そして陸上競技に次いで入場者数が多いサッカーは、こうして「裏金」に蝕まれていったのである。


この手の裏金は、当時を代表するフットボーラーも当然関係している。ペレ、ベッケンバウアー、マラドーナ、クライフのBIG4も例外じゃない。マラドーナはスキャンダル大杉なので、ほっとくとして、ペレ、クライフ、ベッケンバウアーの三人に共通するのは、このプーマとアディダスの戦争から、上手い事、金を引き出すことに成功したって事。ペレとクライフはプーマから、ベッケンバウアーはアディダスから莫大な特別手当を引き出している。実はこの四人、金に汚い所で共通していて、現役時代は、堂々と裏金要求するような連中だった。



こういった特別手当、現金入り茶封筒は、主に二つのシューズメーカー、アディダスとプーマの骨肉の争いから生み出された。しかし、これはあくまで、選手を広告塔として、自陣営に引き込もうとする動機によるもので、FIFAやIOC自体には、全く関係の無い話だった。シューズメーカーが選手に裏金渡した所で、FIFAやIOCには一銭もはいってこないからだ。



ところが、ある男の登場が、これを一変させていくことになる。その男の名前は、ホルスト・ダスラー。アディダスの創業者、アドルフ・ダスラーの息子であり、1970~1980年代のスポーツを裏で操っていたフィクサーである。人物的には、スポーツ政治における田中角栄と思って貰えば良い。


彼が今回のエントリの主役である。



ホルスト・ダスラーとスポーツマーケティングの登場


ホルスト・ダスラーが、スポーツの世界に初めて顔を出したのは、メルボルン・オリンピックだった。この時、彼は20才。しかし、彼の非凡な才能は、メルボルンで即座に発揮された。彼はメルボルンに降り立つと、アディダスの小売店に行き、そこで「シューズの無料配布」を提案する。そんな事をしたら、靴が売れなくなるじゃないかと小売店側は渋ったが、「スリーストライプを履いた選手がゴールテープを切ること以上に効果的な宣伝はない」と言って、店主を納得させると、「好きな靴を選んでくれ」といって選手団を店に招待しだしたのである。この後、五輪の選手村では、大きなリュックを背負って、スパイクをタダでくれる愛想のいいドイツ人青年は評判になった。ここから、彼のキャリアはスタートしたと言って良い。



しかし、彼のキャリアは、順風満帆にはいかなかった。メルボルンから帰国して、ホルストは会社での決定権の向上を望んだものの、両親はそれを受け入れてくれなかったのである。そのため、両親との関係がギクシャクしたものとなっていた。さらに、カソリックの彼がプロテスタントのモニカ・シェーファーを伴侶として望んだことも、両親との関係を悪化させた。


そのため、両親は一時的にホルストを、アルザスの工場の責任者にして、家から出すことにする。こうして、虎は野に放たれた。


ホルストと「アディダス・フランス」は、この後、ドイツ本社とは切り離され、空前絶後のスポーツ帝国の建設に邁進していくことになる。(ちなみにモニカとはその後すぐ結婚している)



アルザスに居を構えたホルストは、ありとあらゆる障害を無視して突き進んだ。彼の有名な特徴として、「ほとんど眠らない」というのがある。夜の12時まで会議をしておいて、朝の7時にランニングをはじめる。しかも、深夜でも何かアイデアが閃くと電話かけてくる、深夜二時まで会議しといて、朝に深夜放送の感想を聞いてくるetc...


ただ、何よりも彼の人物としての特徴で、触れておかなければならないのは、「人たらし」の側面である。田中角栄と非常によく似ているのだが、ホイストは、とにかく他人を操るのが上手かった。彼のモットーは「ビジネスは人間関係」であり、信じられないほど多くのスポーツ選手、関係の名前を覚え、さらに彼らの家族の構成まで知っていた。スポーツ選手と知り合いになると、すぐに食事に誘い、家族にプレゼントをし、必要であれば、選手に気前良く小切手を渡した。睡眠をほとんど必要とせず、疲れを知らぬ仕事ぶりと、スポーツ選手とスポーツ関係者とすぐに友人になる能力。これが彼の特徴だった。部下にもそれを要求し、アディダス・フランスの社員達は、スポーツ選手と関係者に、どんどん接近していく事になっていく。(これは現在でも続いてる)



ホルストとアディダス・フランスは次第に、本社、アディダス・ドイツと険悪になっていく。原因は、彼らがドイツから国際市場での売上を奪いはじめたからである。ホルストは、アディダス・フランスの収益を増加させるため、海外事業を必要としていた。さらには、バスケシューズ、テニスシューズ、スイムウェアにまで参入し、新ブランドを設立し、輸出ビジネスでは、本社を超える勢いで伸ばしていった。結果として、両親との間は、さらに冷え込んでいくことになる。もはや、ドイツとフランスは、一つの企業でなく、ライバルといった関係にまでなっていった。



ホルストは、こうしてアディダスを様々なスポーツの分野に広げ、世界中にスポーツ関係の友人をつくり(アフリカからソ連、共産圏、アジア、日本にまで)、国際的なスポーツの帝国を作り上げていったんだが、彼が、W杯とオリンピック、この二つを手に入れるキッカケとなったのが、1974年のFIFA会長選である。そう、ブラッターの師匠、アベランジェがFIFA会長になった会長選だ。


ホルストは当初、アベランジェの対立候補だった、スタンリー・ラウスFIFA会長を支持していた。ホルストは、自慢のコネクションを利用して、共産圏の票をとりまとめていた。実は、アベランジェはソ連を味方につけており、ソ連に共産圏の票をとりまとめてもらい、共産圏の票は、全てアベランジェに入るはずだったのだが。アベランジェは、ここで、ホルストが敵に回すと厄介な相手だと知った。


ホルストは会長選前夜、知人からラウスは負けると断言された。理由はアフリカ諸国がアベランジェ支持に回ったからである。ここでホルストは方針転換する。ラウス支持からアベランジェ支持に乗り換えたのである。即座にアベランジェのホテルを訪ね、以後、ホルストはアベランジェの強力な資金源となる。



アベランジェは、選挙公約として、W杯の出場国の増加、ユース世代の国際大会開催、途上国へのサッカー振興のための投資を約束していた。これは金がかかる話であり、資金源を必要としていた。そして、そこに現れたのがホルスト・ダスラーだったのである。



ただ、ここで問題が残った。アベランジェのプロジェクトの資金源をどうやって調達してくるかという点だ。これは莫大な資金が必要だったので、スポーツ選手に小切手切るのとは訳が違った。



ここで、ホルストが目をつけたのが、「スポーツマーケティング」で名を上げはじめた会社、「ウェスト・ナリー社」となる。スポーツマーケティングというと、何してるかわからないから、その内容を具体的にいえば、



1,スポーツイベントのブランディングを手伝う
2、スポーツのスポンサーになって、イメージを向上させたい企業を探してくる。
3、スポーツイベントとスポンサーを結びつけて、仲介料を取る



というビジネスモデルだ。この手法は、特に従来型の広告が禁止されつつあったタバコ産業に興味をもたれたという。



ホルストは、ウェスト・ナリー社と手を組むことにした。そして、まず、1975年、コカ・コーラをFIFAのスポンサーに迎え入れる。この契約が契機となって、次々と契約を獲得、1978年のアルゼンチンW杯では、2200万スイスフランをスポンサーから集めることに成功した。アベランジェは、この資金を遣って(バラまいて)、己の支持基盤を絶対的なモノにしていく。ホルストは、その援助をし、スポーツマーケティングで仲介料をたっぷり取るという仕組みがここに出来上がった。この後、W杯では基本的に、特定のスポーツマーケティング会社が、放映権の交渉権とスポンサーの選定権を独占して、たっぷりと仲介料を取るという仕組みが出来上がる。そして、現在に至るまでの、スポーツマーケティング会社とFIFA幹部の癒着とも言える構造が、ここから始まるのである。今回の}FIFAの汚職騒ぎで、スポーツマーケティングの会社の幹部まで逮捕されているので、この癒着構造の故である。



こうして、ホルストは、FIFAを手に入れた。そして、ホルストは、次の獲物を狙い定める。そう、オリンピックだ。ここで、ホルストが目をつけたのが、フアン・アントニオ・サラマンチだった。ホルストは、今回は乗る馬を間違わなかった。1980年の選挙でサマランチがIOC会長職につくと、狙っていた獲物を手に入れる。


ここで、ホルストが欲しがったのが、五輪の放映権の交渉権とスポンサーの選定権だった。サマランチを窓口にして、IOCに入り込み、この二つを手に入れる。サマランチは、五輪の放映権料とスポンサー収入によって自分の権力の基盤を固めることが出来るし、ホルストは、そこから、たっぷりと仲介料を取るという仕組みだった。


ホルストの能力は、1981年のIOC総会における開催地決定で遺憾なく発揮された。開催候補地としては、名古屋が優勢と思われていたが、ホルストはソウルを選び、韓国側にIOC委員の票まとめをする見返りとして、五輪の放映権の交渉権とスポンサーの選定権を手に入れたのである。この招致活動では、札束が乱れ飛んだと言われる。放映権とスポンサー収入から入る仲介料はそれほどに莫大な利権となっていったのである。やはり、IOCでも、スポーツマーケティング会社とIOC幹部の癒着とも言える構造が、ここに出来上がった。



そして、1982年、ホルストは、ここでウェスト・ナリー社と手を切り、日本の電通と手を組んでISL社を立ち上げる。ここにも面白い話があるんだが、そこは割愛する。社長はクラウス・ヘンペル。こいつはこの後で重要な仕事をするが、それは後述。ISLは、1983年に世界陸上の権利を手に入れると、1985年には公式にIOCと契約。これで、世界陸上、オリンピック、W杯、全てがホルストの傘下に収まったことになる。スポーツマーケティング会社としては、ISLはほぼ全てを手に入れたと言っても良い。



こうして、スポーツ界におけるホルストの帝国は完成した。


ただ、ホルストの物語は、ここで終わりを告げる。彼は、ガンに冒され、1987年、51才でこの世を去った。ホルストの死は、ホルストを後ろ盾としていたFIFA会長のアベランジェ、IOCのサマランチにとって、大きな痛手となった。



主役はここで退場する訳だが、今回の話は、まだもうちょっと続く。




冷戦の終了と衛星放送の登場と放映権料の高騰

ここからは最近の話になってくる。ホルストはソ連の崩壊前にこの世を去ったので、この後の物語は、彼の部下だったり、彼の薫陶を受けた人々によって進行する。


まず、ヨーロッパの話になるんだけど、1980年代くらいまで、ヨーロッパでは地上波が少なく、ほとんどが公営放送だった。そのため、CM枠がなく、企業はTVCMを打てないという状況が長い事続いていた。80年代から多チャンネル化が進むんだが、1990年代に入ると、冷戦が終了し、軍事衛星が民間に払い下げられた。これによって、衛星放送局が誕生することになるんだが、イギリスのBskyBは、イングランドのプレミアリーグの放送を独占するというやり方で、93年には単年黒字化を達成し、世界を驚かせた。


BskyBは、その後、五輪でのヨーロッパでの独占放送権をオファーしたとも言われる。ただ、衛星放送にも弱みがあり、「五輪やWカップのような公共性が高い国際大会は有料放送による独占を禁じるべきだ」という声が欧州では根強く、これらのコンテンツを独占放送できなくなっている。


そのため、五輪やW杯を買うのは、主に誰でも見られる電波を飛ばす放送局に限られるようになっている。もっとも、それでも五輪やW杯の放映権料はうなぎ上りなんだが。



この手の優良スポーツコンテンツは、「キラーコンテンツ」と呼ばれ、多チャンネル時代の視聴者獲得の切り札として、この独占権を巡る入札競争が世界中で行われるようになった。この結果として、プレミアリーグ、チャンピオンズリーグ、W杯、五輪の放映権は、天井知らずの値段がつくようになったのである。



ここで、話が、ISLに戻る。ホイスト・ダスラーの死後、ISLの管理は、ホルストの末の妹の夫、クリストファー・マルムスに引き継がれた。前社長のクラウス・ヘンペルは、マルムスと反りが合わず、退社する。(実際は権力争いに負けた、という見方もできる)


なんだが、ヘンペルの退社パーティの際、そこに招かれていたUEFA会長レナード・ヨハンソンがヘンペルに声をかけ、CLの前身であったECCのリニューアルに誘いいれた事から話が一気に進む。



ヘンペルは、その後、すぐにスポーツマーケティング会社「TEAM」を設立。そして、ECCをCLにリニューアルする構想をぶち上げる。これは、現行のCLとほぼ変わらない内容であり、スポーツマーケティングとしての儲け方も変わらない。


1,スポーツイベントのブランディングを手伝う
2、スポーツのスポンサーになって、イメージを向上させたい企業を探してくる。
3、スポーツイベントとスポンサーを結びつけて、仲介料を取る


という流れである。ただし、ここで、CLは、W杯や五輪のような公共性のあるコンテンツとは違う為、衛星放送で放映権をほぼ独占することが可能だった。そのため、放映権はとても高く売ることが可能だったのである。



その後の流れは、皆さん、ご存じの通り。CLは欧州サッカー、究極のキラーコンテンツとなり、年間1200億の放映権料を生み出すモンスターコンテンツとなる。



同時期、ISLのディレクターのマイケル・ペインも、五輪の放映権料を扱うIOCマーケティング社にヘッドハントされ、五輪の放映権契約についてまとめている。こっちは、ユニバーサルアクセス権との関係上、有料放送には放映権は売れなかった。



CLの商業化は、UEFAとスポーツマーケティング会社TEAMのタッグで進められ、莫大な富を生み出すようになっていくんだが、一方で問題も生み出した。CLがもの凄く儲かるコンペティションになったものの、その基本的な運営についてはUEFAとTEAMが独占的に管理している状態だった。


ここに反旗を翻したのが、CLの主役であるビッグクラブ達と巨大メディア資本(ベルルスコーニ、マードック、キルヒ)だった。彼らは、1997年、「スーパーリーグ構想」をぶち上げた。UEFAを脱退して、ヨーロッパのビッグクラブのみが参加する「ヨーロッパ・フットボール・リーグ」の設立を画策したんである。



ここに来て、UEFAはビッグクラブに譲歩せざるを得なくなり、ビッグクラブは分配金の大幅増加を手にすることできた。以後、ビッグクラブは、CLから得た金で選手を買いあさってさらに強くなるという特権的な地位を享受できるようなる。


そして「ビッグクラブのビッグクラブによるビッグクラブのためのCL」という状態が出来上がった。CLに中小クラブが出ても、翌年主力を引き抜かれるだけ、美味しい所は欧州のビッグクラブが総取り、強者による総取りで、周辺国のクラブはビッグクラブの引き立て役、そんなコンペティションになってしまったのである。


そして、ここに登場するのがプラティニである。プラティニは、UEFA会長に立候補する際、自分の票田としたのが東欧などの中小国だった。UEFAの会長選では、ヨーロッパ内ではどこも一協会一票である。なので、高まりつつある中小国の不満、ビッグクラブによるCLの富の独占という状況にプラティニは目をつけた訳だ。プラティニは、中小国へのCLの門戸開放を最大の目玉として、UEFA会長選に望んだわけだ。中小国にとって、これほど有難い話はないからだ。



皮肉な話だが、プラティニのやり方は、アベランジェやブラッターがやったのとほとんど同じだ。アベランジェとブラッターはW杯の利益が欧州に独占されている事に対するアジアやアフリカの不満を利用し、会長選では反欧州・親アジア・アフリカとしての立場を明確にすることで、アジアとアフリカを支持基盤として会長選を勝ち抜いてきた。プラティニは、欧州をビッグクラブに変え、アジアとアフリカを東欧・ヨーロッパ中小国に変えたものに過ぎない。


プラティニのやり方をみていると、ブレーンについてるのは、多分、元アディダスの連中なんだろう。



疲れてきたし、大体、流れは説明し終えたので、そろそろまとめる。



現状、W杯とオリンピックは「儲からない赤字イベント」から、「大量の富を生み出すイベント」になった。しかも、双方共に、一つの団体が市場を独占している。そのうえ、外部から監査や規制をほとんど受けていない。つまり、利権団体なのである。これが何を生み出すかというと、「利権団体+外部からの監査がない+市場を独占している」、とくれば、必然的に腐敗が生じる。




1980年代から始まったスポーツマーケティングの隆盛は、それまで赤字経営だったIOCとFIFAに多大な富をもたらし、そこに放映権料の高騰も相まって、今や、W杯と五輪は、世界で最も儲かり、そして最も腐敗したイベントになった訳だ。



UEFAもいずれそうなる。というか、すでにそうなってるんだろうが、CLがあれほど富を生み出し続けている以上、スキャンダルが出てくるのは時間の問題だ。以前、CLの抽選がやらせだってアレは出たけど、あんなモンじゃすまないスキャンダルはいずれ出る。根本的に、UEFAも、FIFAやIOCと同じく、監視機能がない利権団体なんだから、腐敗するのは当たり前なのだ。




という訳で、これで大体、FIFAやIOCが腐敗していく流れはまとめ終わったので、これでおしまい。呼んでくれた人、サンキュー。






全部読むのかったるいという人の為のまとめ、w杯と五輪の腐敗の歴史

WW2以前   ファシストによる五輪、W杯の利用、ムッソリーニのイタリアW杯、ヒトラーのベルリンオリンピック。


1950~1960 二大靴メーカー、アディダスとプーマによる陸上競技、サッカーの選手獲得競争。ロッカールームには現金入り茶封筒が散乱する。プーマとアディダスは、自分の靴を有名選手に履いて貰う為、ありとあらゆる手段を尽くすようになる。



1970~1990 スポーツマーケティングの開始。五輪とW杯の収入が、チケット収入メインから、広告収入メインに切り替わる。IOCとFIFAの収入は以後、激増する。それと同時に内部の腐敗が進行する。また開催地の負担が減ったことで、招致運動が活発化。それに伴って、招致活動の不正が深刻化する。


1990 冷戦の終了。それと同時に軍事衛星が民間に払い下げられ、衛星放送が開始される。国際試合を全世界に中継することが可能になり、スポーツはキラーコンテンツとなる。放映権料ビジネスが金脈となる。五輪とW杯は放映権料メインとなっていく。腐敗が深刻なレベルに達し、五輪などでは改革が試みられるようになる。



2000~ インターネットの登場で、オンラインでのスポーツギャンブルが流行する。結果として、オンライン賭博による国際規模のスポーツ八百長が仕組まれるようになる。FIFAの汚職が臨界を突破し、司法の手無しでは浄化不可能な段階に達する ←new!

ブラッターがFIFA会長に再選したんで、FIFAの話をするよ

さて、本日はFIFAの話である。


ちょっと前から、



www.47news.jp



こんな具合のFIFAの汚職関連のニュースがサッカー論壇では話題になりまくっており、そろそろ僕も一つエントリ書いておこうと思った次第である。ざーっと、話題になった記事を読んだ感じ、FIFAの内部の政治について、詳しく書いてる記事がそんななかったので、今回の記事は、そっちに焦点あてて書こうと思う次第である。



www3.nhk.or.jp



ちなみに、ブラッターなんだが、UEFAのプラティニに「辞任したら?」とか言われつつ、あっさり当選をキメてしまった。ブラッターの政治力マジ半端ない。



今回のFIFAの汚職話なんだけど、その前にFIFAの組織の話


まず、この話から始めよう。



今回のFIFAのスキャンダルが出た時、FIFAの組織の話が全然話題になっていなかったので、まずココから入る。これを理解しないと、今回の話は理解できないからだ。


FIFA(国際サッカー連盟)には6つの大陸連盟が存在し、その内訳は

  • アジアサッカー連盟(AFC) 46 members
  • アフリカサッカー連盟(CAF)54 members
  • 欧州サッカー連盟(UEFA) 53 members
  • オセアニアサッカー連盟(OFC)11 members
  • 北中米カリブ海サッカー連盟(CONCACAF)41 members
  • 南米サッカー連盟(CONMEBOL) 10 members


こうなっている。今回、のFIFA会長選は、この6つ大陸連盟に存在する215の協会の投票によって決定される事になった訳だ。会長選については、各協会一票が原則であり、一つの国の中に複数の協会をもつことが許されているイングランド以外、複数票をもっている国ってのは原則存在しない。


ブラッターの権力を支えているのは、この中で、アジア、アフリカ、北中米カリブになる。基本的に第三世界でブラッターは受けが良い。なんでかというと、W杯で得た莫大な放映権料をアジア、アフリカ、北中米カリブなどに特に手厚く配分してくれる上に、アジアやアフリカにW杯をもってきてくれた功労者と見られているからだ。


このFIFAの全加盟国が参加し、意志決定が行われるのが「総会」になる。FIFAの意志決定機関がココだ。だが、ここでのポイントとして、総会はW杯の開催国を決定する権限をもってないってのがある。


じゃあ、一体、どこがW杯の開催国を決めているのか?


ここで、FIFAの最大の仕事の話に移る。FIFAの存在意義とは、「FIFAワールドカップの主催」、これに尽きるんだが、ココにちょっとしたカラクリが存在する。開催国を決める権限をもっている場所、それがFIFA理事会だ。理事会の内訳は

FIFA理事会

会長   1名
副会長  8名
理事  15名  

計24名

となっている。この24名がワールドカップの開催国を選ぶ権限をもっている、いわばキーマンとなる。ここでポイントになるのが、各大陸連盟が送り込める理事の数である。普通に考えれば、大陸連盟に所属する協会数で決まりそうなもんだが、実はそうなっていない。各大陸連盟から出せる理事の数をまとめると、


  • アジアサッカー連盟(AFC) 理事4名
  • アフリカサッカー連盟(CAF)理事4名
  • 欧州サッカー連盟(UEFA)  理事8名
  • オセアニアサッカー連盟(OFC)理事1名
  • 北中米カリブ海サッカー連盟(CONCACAF)理事3名
  • 南米サッカー連盟(CONMEBOL) 理事3名

となっている。これら理事23名+FIFA会長がW杯開催国を決める投票権を持っている訳だ。ちなみに、開催国になりたい場合、理事会の多数決で過半数を取れば良い。


これが何を意味するのかというと、欧州の8票は絶対的な票田となるって事である。欧州は、自分の所と会長、それにアジアかアフリカを抱き込んでしまえば、過半数の13票を抑えることができてしまうのだ。 つまり、その気になれば欧州は延々と、てめえの地域でW杯を開催しつづける事ができなくもない。


これははっきりさせておきたい事なんだけれど、W杯で一番美味い汁吸ってる地域は欧州だって事。過去20大会中、10回の大会は欧州で行われており、W杯開催については、欧州が圧倒的に有利になるようにシステムが出来ているのだ。これがFIFAの一番糞なシステムだと僕は思っている。欧州に有利すぎるのだ。


そして、W杯の出場枠。ここも欧州が13、アフリカは5、アジアと南米は4.5、北中米カリブ海3.5、オセアニア0.5となっており、欧州が基本的に優遇されてるんである。



この欧州の凄まじい俺様っぷりに、反感は当然でる。というか、アジアとアフリカ、南米にとって、欧州の欧州による欧州のためのFIFAワールドカップという構図は我慢できないモンだからだ。美味しい所はほとんど欧州がもっていく。地域別開催数を市場シェアとすると、欧州の市場シェアは50%であり、独占禁止法違反である。



そして、ここに目をつけたのが、前FIFA会長のアベランジェ(ブラジル人)となっている。彼は、1974年の会長選において、W杯の出場国を16から24に増やし、その増加分をアジアとアフリカと振り当てるという公約を掲げて、当選を果たした。初のヨーロッパ人以外のFIFA会長が、ここに誕生した訳だ。



その後もアベランジェは数々のスポンサーを獲得しながらFIFAの収入を増やし、それをアジアやアフリカに分配していく事でアジア・アフリカからの絶対的な支持を得ることに成功していく。そして、この路線を引き継いだのが現FIFA会長のブラッターであり、この二人がいなければ、2002年の日韓共催W杯、2010年の南アフリカW杯はなかったかもしれない。アジアでのW杯、アフリカでのW杯ってのは、この二人の権力基盤がアジアとアフリカにあったからだと言っても言いほどなのだ。


基本的に、FIFAの構図としては、欧州対その他、という構図になっており、理事会で8票の大票田をもつ欧州をどう味方につけるか、どう切り崩すかのかってのが、FIFA理事会における最大のゲームとなっている。




FIFA理事会でのゲームの歴史


こっからは、FIFA理事会で実際に行われた、面白いこぼれ話の紹介になる。



まず最初にヨーロッパの票田を抑えることが重要ってのは、1962年大会の開催国となったチリのケースが典型的となる。この大会では、アルゼンチンとチリが招致合戦を繰り広げたんだが、この時にチリのほうがヨーロッパの票田を抑えるのに成功し、アルゼンチンに大差をつけて開催権をゲットしているからだ。裏で何したのかは知らない。まあ、察しはつくけどね。



次が2000年のドイツ対南アフリカの決戦投票の際の話。理事会は真っ二つに割れており、事前の票読みでは12対12の同数だった。この場合、会長がキャスティングボードをもつんだが、ブラッターは南アフリカ開催を支持していたので、投票が行われれば、2006年のW杯は南アフリカ開催で決定するはずだった・・・・のだが。ここで、投票の直前になって、オセアニアサッカー連盟のデンプシー理事が棄権。これによって、南アフリカは1票を失い、決戦投票では12対11でドイツが勝利した。これによって、2006年のドイツ開催が決定した訳だ。ちなみに、デンプシー理事は脅迫まがいの投票依頼を受けていたとされる。オセアニアは、FIFAにおいて、一番立場が弱く、しばしば、この手の理不尽な争いに巻き込まれる。



ただ、やっぱり忘れちゃいけないのは日韓共催W杯のアレである。この話は色んな本で扱われているので、流れだけ説明しておく。

  • 1990年代に入ると、UEFAはCLの開催によって莫大な収入を得ることが出来るようになってきた。
  • 莫大な収入をえたUEFAは、その気になればFIFAにおけるアベランジェ会長の票田だったアジア・アフリカを切り崩す事も可能に。
  • アベランジェは高齢で次の会長選には出馬しないと思われていた。
  • そこに日本と韓国のWカップの招致活動が絡んでくる。
  • 日本はアベランジェ会長の後ろ盾を得ており、単独開催を狙っていた。
  • 韓国は後発だったが、アベランジェ派の切り崩しと次の会長を擁立したいUEFAの思惑を利用し、欧州の8票の確保に成功する。
  • 欧州にとっては、次の会長選でアベランジェ派を倒すため、アベランジェの政治的威信を傷つける意図があった。
  • 日本はいつの間にはFIFA理事会のグレート・ゲームに巻き込まれていた。
  • アベランジェは日本の単独開催を推していたが、UEFAが反旗を翻したことを知る。
  • 決戦投票前の票読みでは、欧州票を得た韓国がリード。
  • 韓国と欧州、アベランジェと日本の最終的な落としどころは、「共同開催」に。

という流れだった。基本的に、欧州票をもっていかれてしまうと厳しいのは。チリ対アルヘンの招致合戦の時と同じである。



ちなみにドイツW杯の場合、AFCはドイツ支持に回ったが、その事でアフリカ連盟を敵に回してしまい、それ以降、交流戦やめます宣言をされてしまった。開催投票で、どっちにつくかは、その後の諸々に関係してくるので、勝ち馬に乗らないと偉い事になる。このあたりも政治と同じ。



最後に、カタールW杯の票読みをやってみよう。



2022 FIFAワールドカップ - Wikipedia



↑にあるけど、カタールW杯の時の開催国選定の経緯はかなり面白い。



まず、理事会の前に、英国紙のおとり取材にひっかかって買収疑惑が発覚し、2人の理事がいなくなった。つまり22名での投票となった。この時、最初の投票結果が、



カタール11票
アメリカ3票
韓国4票
日本3票
オーストラリア1票



となった。この時、面白いんはカタールの票数である。11票。買収疑惑発覚で職務停止された理事がカタールに入れてれば、13票となり、最初の投票で過半数を取れていたことになる。


ぶっちゃけ、このおとり取材、絶対に政治的な意図があったよね、という奴である。カタールにいれるはずだった理事を狙いうちにしてるあたり、すっごいアレな香りがぷんぷんする。カタールとしては、最初の投票で決めてしまえるように、13票確保していたはずである。おもに買収で。



もっともイングランドはW杯の招致活動で毎回負けてるので、単なる逆恨みかもしんないが。つーか、プレミアは金もってるんだから、W杯開きたいなら、少しはばらまけよ。



で、2回目の投票は、


カタール10票
アメリカ5票
韓国5票
日本2票



となった。この時のカタールの心の内を想像するだけで笑えてくる。事前にプラティニとサルコジに多大な支払いを約束して欧州票のとりまとめまで頼んだはずなのに10票である。どこかがカタールを裏切ったのだ。こうなったら、カタールはさらに札束積むしかない。他所の理事の皆さんは笑いが止まらない。カタールから最後の一滴まで搾り取るチャンス到来である。この投票後なら、どんな賄賂だって要求できるぜ兄弟。



そして、3回目は


カタール11票
アメリカ6票
韓国5票



こうなった。カタールはブラッターを取り込んでるから、同数になればカタールの勝ちである。11票確保した時点で、カタールの勝ちはほぼ確定した。



最後の決戦投票は、



カタール14票
アメリカ8票



となってカタールの大勝利。3回目の投票でカタールの勝利はほぼ確定していたので、決戦投票にはあまり意味がない。




となっている。この手のFIFA理事会の票読みは、中々面白い。



最後に今回の一件のアレ

さて、最後に今回の一件で逮捕された連中のリストはってーと、


www.footballchannel.jp



こっちで見られるが、見事なまでに北中米カリブ、南米の理事狙いうちである。ここはブラッターの支持母体の一つだから、会長選での切り崩しとしかいいようがない。実際、南米票は割れたみたいだし。


こういってはなんだが、FIFA会長選、FIFAW杯開催地決定投票の前には、大概、この手のスキャンダルが出てくるようになってる。ブラッター陣営にダメージを与える為に、メディアを使うってのがもはや恒例行事となっており、明らかに反ブラッター陣営がメディアに情報をリークしてるよね、という奴である。もうドロドロのグチョグチョの権力闘争である。2002年の会長選の時も、ブラッターとアベランジェの買収疑惑が出ていたし、その前のアメリカW杯、メキシコW杯はアベランジェの権力できめたよーなモンだし。



ただ、それでもなお、ブラッターが支持される理由ってのが、結局、「アジアとアフリカにW杯もってきてくれるから」というのが最大の理由なんである。これによって、アジアとアフリカの票を取り込んでいるので、ブラッターは結局勝つわけだ。それが面白くないのが欧州の連中だ。



今回も会長選で、反ブラッターによる凄まじいアレが行われたけど、結局ブラッターは勝ってしまった。



今回、これほどスキャンダルまみれになったのに、なんでブラッターが勝ったの?と不思議に思う人がいるかもしれないけれど、それにはこんな背景があるんですよ、とまあ、そういうお話なのでしたとさ。





眠くなってきたし、今日はこの辺で。ではでは。